言葉の力
少しだけ踏み込んで考える日常 コラムニスト 加瀬伊助
私の持論だが、人間が学ぶには言葉を書き連ねるのが一番手っ取り早い。
なぜなら、言葉を書き連ねるのは本当に難しいことだからである。
動機の言語化である。朝起きて仕事をし、帰って風呂入って飯食って寝る日常の連鎖。
それはまさに『試練』と呼ぶにふさわしい。
自分は何ゆえに存在するのかを問い、答えるためにはそれを伝える『自分の言葉』を持たねばならない。
たとえそれを人に伝えなくともだ。 日本語は、世界でも最難関の言語のひとつと言われている。
これは、まあ比べようのないことなので、根拠はそんなに問題ではない。
要は、日本語を操るという行為そのものが非常に難易度の高いミッションであり、言葉を操って自分の意思を他人に伝えてゆくということはすなわち、それを自らに課し続けるということでもある。
訓練としては十分高いものであるということだ。 人は学ぶために言葉を連ねよ。
私のその持論は子供の学習にも最適だ。それというのは、子供には日記を書かせよということである。
感受性豊かな子供たちは、目の前の事象にわくわくとしながら全身全霊で人生を送る。
その脳裏には溢れるばかりの感情と、色彩豊かな情景がぐるぐると巡る。
少なくとも私はそうだった。そしてそれを自分のものだけでなく、誰かに伝えたくてうまくは伝えられなくて、はしゃいでしまってただそれだけで終わりになる。
これは非常にもったいない。
もし子供の頃から大人の感情表現を学び、豊かに表現できたならば、人生の最成熟期に、世界一難しい言語を使って脳を鍛え続け、自己実現そのものを言葉で図ることができる。
これは私が理想とする、言葉を使って人生をのびのびと生きることができる世界の確立である。
親は日記の書き方を子供に教えてほしい。 私は幼いころから言語に長けていたと自負している。
小学生の頃よく感想文で賞をとったり、先生に日記を褒められたりした記憶がある。
それは当時すごく嬉しかったので、今でもしっかりその時の想いが脳裏にある。
先生が自分の作文を読みながら感心し、ははーっとも感嘆の声を漏らしていたのではないかと錯覚すらしている。
私が作文が得意だった理由は、はっきり言って図書館で本をよく読んでいたからだ。本を読んでいれば日記の書き方くらいは身につく。
そして、勉強して大学に行ってまたよく本を読んだ。そして社会人になってさらに本を、本本本と、本を読んだ。
そして、アラフォーになって加瀬伊助となってyoutube上に無数に語り掛けた。
言葉を操り、人に想いを伝え、人々に思想を語り掛け続けたyoutube活動だったが、数千ものコメントを貰った。
そしてそれが私の原動力になり、今日こうして記事を書いている。 言葉とともに自分の人生は誠に太くなった。
最後に、私にとって言葉を尽くす最大の喜びとは『人の心に響く実感』である。
人に価値を与える言葉を放てたときに、自分の心はわくわくどきどきと踊る。これがたまらなく嬉しい。
政治に参加し、発信し、多くの人に自分の言葉を伝えたいと願ってもその気持ちは『ただの言葉』であっては伝わらない。
相手の度肝をブチ抜くような力のある言葉でなくては相手の心には何も伝わらないのである。
人の世とは言葉で動いている。人が認め合い、答えとなってはじめて『社会』として様になる。
理想を語るとき、人は『言葉の力』を使うのである。